『バケモノの子』と中島敦の『悟浄出世』、類似点や気になったところ

バケモノの子

(C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS

 

細田守監督が書いた『バケモノの子』小説版の最後の方に参考文献として、中島敦『悟浄出世』とあります。

 

この『悟浄出世』という作品がどのようなものか気になったので、ざっくりとですが調べてみました。

本当にざっくりと。

 

『バケモノの子』との類似点や気になったところを書いていきます。

 

以下、ネタバレを含みます。

 

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悟浄出世のあらすじ

中島敦といえば、昔『山月記』を中学だか高校だかの授業で習ったような気がします。
たぶん…すいません、記憶がうろ覚え。

 

この『悟浄出世』という作品は、『西遊記』に登場する沙悟浄を主人公としたもので、彼が河底にいるあらゆる賢人に会いに行き、教えを乞うというストーリーです。

 

検索すると、こちらの青空文庫にあり、無料で読むことができます。
中島敦 悟浄出世

 

でも、漢字が多くやや難解。
文体とか読みにくいっちゃ読みにくい。
興味がある方は読んでみてください。

 

私は岩波文庫の文庫本を図書館で借りて来て、読んでみました。
『悟浄出世』のほかにも短編の話がいくつか収録されています。

 

 

この岩波文庫は青空文庫と同じ文ですが、後ろのページに簡単な説明が載っていました。
気持ち程度に…何となくこんな話かなという感じ。
あらすじです。

 

 

まだ三蔵法師や孫悟空、猪八戒と出会う前の話。
流沙河(りゅうさが)の河底に棲む沙悟浄は、考えすぎる性質があった。

 

良くいえば物事を深く考え思慮深い、悪くいえば懐疑的で常に物事を疑っている。
よく独り言をブツブツと言って、「俺はバカだ」「どうして俺はこうなんだろう」とか「もう駄目だ。俺は」と物思いに沈んでいたそう。

 

そんな沙悟浄の様子を見て、周りの妖怪たちは「おまえの気の迷いだ」「悪い病気のせいなんだよ」と、嘲弄したり心配したりしている。
何に出会っても『なぜ?』とすぐ考えて疑い、不安になってしまう沙悟浄。

 

病的なほど考え込んでしまう沙悟浄は、自分自身の不安を消し去るため、この河底に棲むというあらゆる賢人に出会い、自分に納得のいくまで教えを乞おうと旅に出るのだった。

 

マントヒヒの賢者・長毛猫の賢者

あらすじとしては、こんな感じです。
すごくざっくりとなので。

 

めっちゃネガティブ思考の沙悟浄が、「自分とはいったい何だ」「世界とは」「真理とは」といった小難しい哲学的なことを考え苦悩しだしたので、「そうだ!賢人に答えを教えてもらおう!」と旅に出る話です。

 

 

さて、この賢人に会いに行くという設定。
『バケモノの子』でも、熊徹や九太が真の強さを知るために諸国の賢者に会いに行きました。
ここは『悟浄出世』の設定と似ていますね。

 

百秋坊がマントヒヒの賢者に、「強さとは何ぞや」と訊ねる台詞があります。
同じように、『悟浄出世』でも「真理とは何ぞや?」と言う台詞が出てきます。

 

そして、『バケモノの子』に登場してくる賢者たちの設定が、『悟浄出世』で出てくる河底の賢人たちの設定と似ているのです。

 

まず、マント姿のマントヒヒの賢者。
彼は高名な幻術の大家と言われています。

 

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『悟浄出世』で、最初に沙悟浄が訪ねた賢人についての文を引用します。

 

最初に悟浄が訪ねたのは、黒卵道人(こくらんどうじん)とて、その頃最も高名な幻術の大家であった。

 

マントヒヒの賢者は、この黒卵道人という賢人がモデルになっているようです。

 

 

次に登場した老いた長毛猫の賢者。
彼は念動力を行えますが、『腰痛には念動力は効かない』と腰をさすりながら言って、九太に腰を揉んでほしいと、目脂の溜まった眼をしょぼつかせて頼みます。

 

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『悟浄出世』で彼のモデルとなったのは、沙虹隠士(さこういんし)という蝦(えび)の精。
すでに腰が弓のように曲がっていて、曲がった腰を沙悟浄にさすらせる場面があります。

 

隠士は目脂(めやに)の溜った眼をしょぼつかせながら答えた。

 

という一文もあるように、彼が長毛猫のモデルになっていたようです。

 

羅漢石の賢者・アシカの賢者

この後に『バケモノの子』に登場する石(羅漢石)の賢者。

 

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『悟浄出世』でも坐忘(ざぼう)先生という座禅を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚ますという賢人が出てきます。

 

さらに、それぞれ文章の中に『結跏趺坐(けっかふざ)』という言葉が出てきます。
結跏趺坐とは、仏教で仏陀の坐り方のことをいい、左右の足を互いに腿の上に置いて組む座禅のやり方なんだそう。

 

 

最後に登場した、麦わら帽子を被ったアシカの賢者。

 

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九太たちの前でニシキブリを釣竿で釣り上げると、バリバリと噛み砕き、むしゃむしゃ味わいながら教えを説きます。
貪婪(どんらん)に獲物を狙い、最後には多々良を釣り上げて上着を食べるシーンも。

 

 

『悟浄出世』に出てくる鯰(なまず)の妖怪、※(「虫+(収-又)」、第4水準2-87-27)髯鮎子(きゅうぜんねんし)も同じで、貪婪で眼前を泳いでいた鯉を掴み取ると、むしゃむしゃ齧りながら、教えを説きます。
しかも最後には、教えを乞いに来た沙悟浄を狙い、食べようとするシーンも…。

 

 

こんな感じに、『バケモノの子』に登場していた賢者たちは、『悟浄出世』で沙悟浄が訪ねた河底の賢人たちがモデルになっているようです。
河底なので、『悟浄出世』の賢人は魚類が多いんですよね。
おさかな天国。

 

 

で、最終的に沙悟浄があらゆる賢人たちの教えを乞うて、どうなったかというと…五年経っても答えを見いだせず、しまいには「誰も彼も、偉そうに見えたって、実は何一つ解ってやしないんだな」という結論になります。

 

え、五年も…?何やってんの…?
みんな賢人たちは言うことが違いますからね。
それこそ、『バケモノの子』で出てきた賢者たちの『強さとは』に対する答えがそれぞれ違うように。

 

 

物語の終わりでは、沙悟浄の元に三蔵法師と弟子の二人、孫悟空と猪八戒が現れて、沙悟浄も彼らと共に天竺を目指す旅に出ることになります。

 

相変わらず、ブツブツと独り言を言う癖は止めなかったが、「以前ほど苦にはならなくなった」と感じたそう。
考えすぎる性格も、こればっかりは個人の持って生まれた性質だから、なかなか完全に変わることは難しいですよね。

 

闇とアイデンティティ

『悟浄出世』を読んでいて気になった箇所があります。
冒頭で心を病んで独り言を言い、自分自身に不安を感じる沙悟浄。

 

この沙悟浄の描写が、『バケモノの子』で重要なキーワードである『人間が宿す闇』と関係しているように思います。

 

渠(かれ)は何をするのもいやになり、見るもの聞くものが凡て渠(かれ)の気を沈ませ、何事につけても自分が厭わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。

 

この病に侵された者はな、凡ての物事を素直に受取ることが出来ぬ。
何を見ても、何に出会うても『何故?』とすぐに考える。

 

殊に始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑をもつことじゃ。
何故俺は俺を俺と思うのか?
俺とは一体何だ?

 

 

自分自身が信じられず、何をするのもいやになり、見るものすべてが自分の気を沈ませる。
憂鬱でネガティブな感情ですね。

 

沙悟浄が抱いたこの負の感情が、『バケモノの子』でいうと、九太や一郎彦の闇に似ていると思いました。

 

 

物語の一番最初、夜の渋谷で一人ぼっちでいる九太(蓮)
すれ違う人の幸せそうな、のんきそうな、無責任そうな顔を鋭い目で睨んでいる。
『大嫌いだ…大嫌いだ…』
本家の親戚たち、自分の父、街を歩く自分以外のすべての人間に向けた呪い。

 

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めっちゃ暗い攻撃的な負の感情ですね。
見るものすべてが自分の気を沈ませるというのは沙悟浄と同じですけど、沙悟浄の方は他者に対して攻撃的ではないから、これは少し違うかも。

 

 

どちらかというと、自我(アイデンティティ)の問題かと思います。
自分とは何か。
特に青年期の九太と一郎彦。

 

九太は、バケモノの世界で熊徹の弟子としてこれからも暮らしていくか、人間の世界に戻り、知らなかったことを勉強していき普通の生活をしていくか。
どちらの道を選ぶべきか、成長した九太は悩み葛藤します。

 

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自分は人間なのか。
バケモノなのか。
バケモノの子として育てられた九太は、自分自身の存在について悩みます。

 

 

同じように、成長した一郎彦も家族の中で自分だけ容姿が違うということに悩み、自分自身が信じられなくなっていきます。
そして、物語後半には闇に呑み込まれてしまいます。

 

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楓の言葉でいうなら、「誰だって、みんな等しく闇を持っている」
誰にだって不安や悩みがあり、自分とは何かと考える。

 

そんな時、自分を信じられなくなったら。
悩み苦しみ、不安に押しつぶされ、周りを憎み呪うようになると闇に呑み込まれる。

 

 

今思えば、『バケモノの子』は父と息子、師弟関係をテーマにした作品でもあるけど、『自分とは何か』というアイデンティティも実は関係してるんだなということに気付きました。

 

まとめ

自分とは何か。
その答えについて、『悟浄出世』では悩める沙悟浄に対して、魚怪の医者がこう言っています。

 

お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。
自分で治すよりほかは無いのじゃ。

 

自分自身で答えを見つけるしかないと。
同じように、『バケモノの子』でも諸国の賢者を巡る旅の最後で、熊徹が『強さの意味は自分で見つけろ』と言う場面があります。

 

自分で答えを見つけるしかないんですね。
ごもっとも。
誰かが示した道じゃなく、自分で自分の道を選べということですね。

 

 

子どもから大人になるってそういうことかも。
あ、でも大人になっても、悩みとか不安とか尽きないですけどね。
闇とかそこらじゅうにありますもんね。

 

そんなところで、『バケモノの子』と『悟浄出世』についての漠然とした考察おわり!

『バケモノの子』一郎彦のその後は?ゲスい台詞を言いながら、あの猪帽子はかわいいと思う

熊徹の家の近くにある壁の絵が、数年後には微妙に変わってる

九太が作っていた料理(煮しめ)について

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