累-かさね-11巻のネタバレ感想【この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはない】

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

どうも、くろやんです。

 

今回11巻の表紙。
驚きの黒さ!
尋常じゃなく黒い&暗い。
これまでの表紙で一番怖いよ( ゚Д゚)

 

本編で大きな転機を迎え、また絶望的な場面もあるため、そんな内容に合った表紙です。
今回もまた濃いストーリーだったなぁ。
読んでいてこちらまで重く苦しくなるストーリーですが、それが本質を突いた内容や言葉だったりで面白い。

 

 

10巻、累の過去を知る五十嵐幾との再会。
咲朱(累)は幾とダブルキャストで舞台に立つことになる。
舞台名は『星・ひとしずく』

 

それと同時に、いなくなった野菊の行方を調べていた天ヶ崎は、累の過去から五十嵐幾の存在にたどり着く。
天ヶ崎は幾と接触することに。

そして天ヶ崎は幾に、累が顔を奪い名前を変えて女優『咲朱』として、すぐ近くにいることを知らせるのだった。

 

以下、11巻のネタバレを含みますので注意してください。

 

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壮絶なまでの自己否定感

富士原佳雄の新しい舞台『星・ひとしずく』
その最終リハーサルが始まります。
ダブルキャストとして主役を演じる咲朱(累)と幾。

 

リハーサルの先発は幾から。
この『星・ひとしずく』は、誇らしい自分を失う一人の女性の物語です。
その女性は流れ星として、煌々とした光を放ち輝いていた。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

しかしある時、光を失い飛ぶ力を失った流れ星は、下方へと流されてしまう。
精根尽き果てた彼女は、自分は美しい光という才能にすがって生きていたことを知り、光を失った自分に生きる価値はないと知る。

 

最後、大鯨に呑まれ自らの命を消そうとした流れ星は、かつて泉で出会った白へびに助けられる。
「君に会いたくて追ってきた」と言う白へびに、「私は光ることも飛ぶこともできない、ただの石ころなのに」と、返す流れ星。

 

そんな彼女に、白蛇は「星だろうと石だろうと、君は君じゃないか」と言葉を掛ける。
命の瀬戸際に流れ星は、『この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはない』と知り、笑顔を見せて物語は終わるのでした。

 

 

この流れ星の物語を、先発の幾は台本通り希望で飾り、見事演じ終えました。
そして、後発の咲朱のリハーサルが始まります。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

リハーサル前、咲朱は富士原に対し、この物語の流れ星とは『淵透世』のことではないのかと尋ねます。
流れ星のように光を求め、暗い地上で光を失って生きるのは嫌だと、運命にあらがおうとした。

 

順調に咲朱のリハーサルは進んでいき…。
最後、流れ星が『この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはない』と知る場面。
咲朱はこのラストシーンを台本通りの希望ではなく、深い絶望で体現して終えました。

 

この物語は淵透世(いざな)や咲朱(累)にとって、果てのない絶望を感じるものだったのです。
石だろうと、星だろうと私は私。
醜くても美しくても、私は私。

 

 

その咲朱の絶望を体現した迫真の演技に、リハーサルを観ていた幾や富士原や羽生田、多くのスタッフたちは衝撃を受けます。
しかし、拍手は鳴り止むことはなく。
富士原はこの咲朱の演技について、『壮絶なまでの自己否定感』だと幾に話したそうです。

 

女優という生きもの

最終リハーサル後の帰り道。
幾は咲朱に、富士原が言っていた『壮絶なまでの自己否定感』について、「あなたの中にあるものなんですか?」と尋ねます。

 

幾自身も以前、自分の才能の無さに打ちひしがれ、絶望していた時があったと話します。
咲朱には素晴らしい才能があるのに…それでも絶望は晴れないのかと、幾は尚も尋ねます。

 

この幾の問いに、「そうよ。だから…私は演じ続けるの。絶望から希望に向かって」と答える咲朱。
咲朱の力の根源は絶望から来るもの。
苦しみながらも全身全霊で演じる、そんな咲朱とダブルキャストで舞台に立てることを、幾は幸せだと感じます。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

真っ直ぐに自分の想いを告げる幾を羨ましく思ったのか、「あなたみたいになれたらいいのに…」と言う咲朱。
それから他愛ない話をする二人。

 

昔からの友人のように、互いの距離が縮まった咲朱と幾。
すると、咲朱の携帯が鳴ります。
咲朱が電話に出ると、狼狽した羽生田の「野菊が逃げた…!」という声が。

 

電話はすぐに切れ、咲朱の背後にいた幾が「ごめんね…」と謝り、咲朱の本当の名を呼びます。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

これは天ヶ崎による計画でした。
野菊救出のため最終リハーサルの日を狙い、累が住んでいた屋敷が羽生田一人になるよう、幾が咲朱(累)を足留めしていたということです。

 

まんまとやられた累は、本当の名前で呼ぶ幾に「その名前で呼ばないで!」と、嫌悪感と怒りを露わにします。

 

 

どんなに自分を否定し隠しても、あなたは咲朱でも野菊でもなく累。
累を真っ直ぐ見据えた幾は、こう言います。

 

『この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはない』
この台詞を、果てのない絶望で体現した累。
それは、誰かの姿で舞台に立ち続けても、その賞賛や拍手は淵累に向けられることはないから。

幾の指摘に、累はやり場のない怒りと苦しみをぶつけます。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

鞄に入っていたカッターを取り出した累は、「あなたの顔も…裂いてあげましょうか」と、幾の頬にカッターの刃を当てます。
自分の苦しみを同じように、幾にも分からせようとする累。

 

しかし幾は「いいよ」と言い、傷が残ってもそれぐらいなら女優は続けられると、累が予想しなかった言葉を言います。
舞台にしがみついていられるなら、どんな役でもやる。
「だって、私は頭のてっぺんから足の指先まで、すっかり女優という生きものなんだもの」

 

 

幾の覚悟と信念を感じる言葉に、累も動きが止まります。
そして、「あなたは違うの?容姿(かお)ひとつで諦めてしまえるものなの?」と尋ねる幾。

 

自分にとっての演劇は…。
己と真摯に向き合う幾の言葉に、累は「誰しもが…あなたみたいに曇りなく、真っ直ぐ生きられるわけじゃないのよ」と、涙を流してうなだれます。

 

「明日の本番、私の未来を奪っておきながら、中途半端な演技なんてしたら…許しませんから」と言うと、累は幾の前から去っていくのでした。

 

私は一体に何に成ればいい

あの後、累は一度屋敷に戻り、羽生田に何が起きたのか一部始終を説明されます。
羽生田がいなくなったあとの屋敷で一人、鏡に映った自分の顔を見る累。
醜くても美しくても、満たされることがないなら、自分は一体何に成ればいいのか。

 

『星・ひとしずく』の本番。
咲朱は舞台に立つことはなく降板となり、幾が咲朱の想いを背負い、主演を演じ終えます。

 

 

幾の前からも、羽生田の前からも姿を消した累。
一人で誰も自分のことを知らない地へと行き、旅館に泊まりながら身を潜めていました。

 

醜い自分には生きる価値はない。
しかし、美しい姿になっても満たされることはない。
美しい咲朱として生きるうち、喜びだったはずの日々は、やがて苦しみを伴うようになっていました。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

かつて、ニナに言われた言葉を累は思い出します。
『しょせん偽物なのよ、あなたは。私の姿で誰かに愛されても賞賛されても、それはあなた自身に向けられたものではないわ』

 

ニナの言う通りだと思う累。
それなら…私は何者なのか。

 

 

「母さん…私たちは生まれてくるべきではなかった」と、累は母の幻影に語りかけます。
虚構(にせもの)で身を覆っても、真実(なかみ)の醜悪さは変わらない。
誰かを殺し、誰かから奪い、罪深い身でありながら光を欲してしまった。

 

もう終わりにしよう。
そう考えた累は断崖に立ち、自らの命を絶とうとします。
「だって、この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはないのだから…!」

 

 

その時、これまで演じてきた記憶が累の脳裏によぎります。
舞台にはすべてがある。
喜びも苦しみも、嘘も本当も、誰も見たことのない夢ですらも。

 

自分にとって演劇がどういうものであるか、累は気付きます。
そして、母(いざな)の死の瞬間の言葉を思い出す累。

 

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(松浦だるま『累-かさね-』11巻)

 

「どうか生きて」
さらに続く言葉を思い出し、累は生きるべき理由を見出します。

 

 

累が姿を消してから4ヶ月。
羽生田や幾や野菊、それぞれが累のいない日々を送っていました。
その間、母の足跡を一人でたどる累。

 

やがて累は、宿命の地である朱磐(あけいわ)にたどり着き、そこで待ち伏せしていた羽生田と再会することに。

 

まとめ

表紙のようにどこまでも暗く黒い、累の果てがない絶望を表した11巻。
なんてシリアスで重たいストーリーなんでしょう。
読んでいてこちらまで暗くなるけど、同時に一種のカタルシスのようなものを感じます。

 

今回、野菊が天ヶ崎によって救出され、累はついに咲朱として舞台に立てなくなります。
『この身がどう変わろうと、私が私であることに変わりはない』という台詞。
『誰かの姿で舞台に立ち続けても、その賞賛や拍手は淵累に向けられることはない』という事実。
これらを痛感した累は絶望し、自らの命を絶とうとします。

 

 

以前ニナが亡くなり、ニナの姿で舞台に立てなくなった時も同じように、醜い自分には生きる価値はないと絶望していましたが、その時は生きるために美しさが必要だと、絶望から這い上がることができました。

 

今回のは違いますね。
幾に指摘されたように、累自身も気付いてしまったんですね。
誰かの姿で舞台に立っても、その賞賛や拍手は累に向けられることはないということに。

 

 

前回の10巻で、プラネタリウムで見せた咲朱の涙や、家に帰ってから一人窓辺で泣く累など。
本当は累自身も分かっていた。
相手の顔を奪って美しくなっても、舞台に立ち賞賛を向けられても、満たされることがないんだと。

 

命を絶とうとした累が思い出した光景。
演劇をした記憶、母の最期の言葉。
それらを思い出した累は母の足跡をたどるようになり、どこか吹っ切れたような、サッパリしたような表情になります。
累の中でどのような変化があったのか。

 

 

こんなに虚しさや絶望、哀しみを心が揺さぶられるほど感じることができるなんて。
今回の見どころは、やはり累の深い絶望でしょうか。
あと、幾と対峙する場面も好きです。
11巻を読むと、累が演劇の演じる楽しさを思い出して、本当の姿でも演じることができたら…と願ってやまない。

続きはこちら。
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