(松浦だるま『累-かさね-』6巻)
『累-かさね-』の作者である松浦だるま先生について調べてみると、よくインタビューを受けられているようで、ネット上にたくさんのインタビュー記事が見つかります。
その中のひとつに、手塚治虫先生の公式サイトに載せられているインタビュー記事があります。
それについての話です。
以下、ネタバレを含むので注意してください。
漫画家としてのルーツ
手塚作品が好きという松浦先生。
虫ん坊 手塚治虫生誕90周年企画 スペシャルインタビュー第1回 松浦だるまさん
こちらのインタビュー記事に書かれているように、手塚治虫先生について自身の想いをアツく語られています。
手塚先生は松浦先生の漫画のルーツとなっているようです。
また、他のインタビュー記事でも言われていますが、『累-かさね-』は少し昔の昭和の香りがする絵柄です。
それは松浦先生が、手塚作品だったり自分が生まれる前の頃の漫画が好きで、その影響を強く受けられたからだとか。
私はこの『累-かさね-』の少し古い感じの絵柄が好きですね。
手塚作品といえば、『鉄腕アトム』や『ブラックジャック』や『火の鳥』など有名なものが沢山あります。
人間の本質を捉えたもの、生命について考えさせられるものなど、とにかくテーマ性が強い手塚作品。
『累-かさね-』も美醜がテーマとなっていて、人間の本質を鋭く突いた描写が多いので、やはり手塚先生の影響が色濃く出ているなと思います。
さて、数多くの作品を生み出した手塚治虫先生。
その中の作品で、マイナーなものですが『人間昆虫記』という作品があります。
それと『累-かさね-』の関連について、思ったことを書いていきます。
他者のものを奪い、名声を得ていく
インタビュー記事にも「『累』は『人間昆虫記』に似てる!?」と書かれていますが。
この両作品、似ているところがあるんですね。
ただ、松浦先生は『累-かさね-』の1巻が出た段階で初めて読んだそうです。
インタビュー記事でも、めっちゃ太字で強調して書かれています(だからパクってないよ)
たまたま似た面があったということですが、私は以前『人間昆虫記』を読んでいたので、確かに似てるな~と何となく思っていました。
この『人間昆虫記』という作品。
ある女性が主人公の物語で、彼女はいわゆる悪女のような存在として描かれています。
あらすじはこんな感じです。
芥川賞を受賞した作家、十村十枝子(とむらとしこ)
彼女はもともと『テアトル・クラウ』という劇団の若手ナンバーワンという女優であり、さらには一昨年デザインの分野でも国際的な華々しい賞を受賞したデザイナーでもある。
数々の違った分野の才能をもつ十枝子をマスコミや世間は注目し、才女ともてはやした。
そんな十村十枝子の秘密。
それは、彼女は他人のものを奪い、自らのものへ吸収する『模倣の天才』だということ。
幼虫が皮を脱ぎ捨てるたびに変身するように、彼女はそれまでのベールを脱ぎ捨てて羽化する蝶のように、次々と華麗に姿を変えていった。
このように、『人間昆虫記』の十村十枝子という主人公の女性は、他人の作品や能力を奪い、それを模倣して自分のものへ吸収していく天賦の才があったんですね。
女優であり、デザイナーであり、作家である彼女の輝かしい栄光は、すべて他人から奪いとったものだったというわけです。
この他者のものを奪い、自らのものにして名声を得るという部分が『累-かさね-』と似ているんですね。
『累-かさね-』も他者の顔を奪い、その者の名前や人生すらも奪い取っていく。
ちょうど『累-かさね-』の6巻、ニナの独白シーンでこんな場面があります。
植物状態となったニナは、身体も動かせず声も出せず、空虚な日々を過ごすことになります。
その一方で、女優『丹沢ニナ』として舞台に立ち続け名声を得ていく累は、女優として日に日に成熟していく。
この頃の彼女の唇は、やけにしっとりとして、なまめかしく潤っている。
まるで、口から私の養分を吸って、生き生きと成熟していくようだった。
(松浦だるま『累-かさね-』6巻)
この辺りの描写や内容が『人間昆虫記』を彷彿とさせます。
他者のものを奪い吸い取り、まるで羽化する蝶のように美しく成熟していく。
美しいものの裏側、女の残酷な一面を感じる場面で、ゾクッときます。
個人的に好きな描写です。
空虚な女
このように、『累-かさね-』『人間昆虫記』の両作品の主人公は、他者のものを奪い取り、自らのものにしていく姿が似ています。
おまけに、どちらも『演じる』という要素が作中にありますし。
あ、でも『人間昆虫記』の十村十枝子は、自らの身体を男に使うことも厭わない典型的な美女タイプの悪女なので、累とはまた少しタイプが違いますけどね。
十村十枝子は数々の栄光を掴み、名声を得ていくが、それは何か大きな野心があるからではなく、彼女が生きるためにこのような手段を選んでいるからに過ぎないということが、物語の後半になり分かります。
実家に帰り、一人になった十枝子はこんな台詞を言う。
むなしいわ…。
女一人で精一杯生きていくって、こんなにむなしいもんかしら。
彼女が心から気を許していたのは死んだ母親だけ。
他人のものを奪い、栄光を勝ち取ったところで、彼女は結局一人。
物語のラストシーン、十枝子は自らが望んだ地に一人立つが、その表情は晴れやかではない。
私…さみしいわ…。
ふきとばされそう…。
輝かしい栄光を掴み、虚構の中で生きる十村十枝子は空虚なんですね。
同様に『累-かさね-』でも、女優として成功を掴み、賞賛と拍手を向けられる累は、次第に美しい女優『咲朱』としていることが苦痛になっていきます。
それは、誰かの姿で舞台に立ち続けても、その賞賛や拍手は淵累に向けられることはないから。
だから累は、咲朱として稽古に出掛け、帰って来て一人になると泣いていたんだそう。
(松浦だるま『累-かさね-』11巻)
虚構の姿で手に入れた栄光の果て、累の虚しさや哀しさを感じる場面です。
『人間昆虫記』の十枝子の方は虚しい、空虚な空気が漂っていますが。
累の方は、さらに哀しいという感情が加わるように思います。
それは、やはり彼女の容姿が『醜い』という事情があるからだと思いますね。
だから美しい者の顔を奪い、美しい者となって栄光を手に入れた。
しかし、その賞賛が累自身に向けられることはなく。
その苦しみと、己が醜いという事実を否定し隠すため、自分の内面を見せることができずにいる。
累の母であるいざなも、かつて富士原に尋ねられたことがあります。
「あなたは何故、自分の内面(こころ)を誰にも見せてくれないのか」と。
いざなはその問いに答えず、ただ寂しそうに微笑んだそう。
(松浦だるま『累-かさね-』11巻)
淵透世という虚構の輝かしい栄光の裏には、本当の姿や内面(こころ)を誰にも見せることのできない、彼女の深い哀しみがある。
『累-かさね-』も『人間昆虫記』も、どちらも他者のものを奪い取る女性が主人公で、自らの欲望のために悪女のように冷酷な面を見せることがありますが、同時に彼女らの誰にも言えない虚しさや哀しみも確かに存在しています。
まとめ
そういえば、『人間昆虫記』以外でも『累-かさね-』と似た要素をもつ手塚作品は他にもありました。
美しいものを妬み復讐しようとする『アラバスター』や、土蔵に閉じ込められたまま美しく成長した『奇子』など。
どちらも大人向けのダークな手塚作品です。
私は手塚先生のダークな作品、結構好きですね。
人間の本質が描かれているので。
『累-かさね-』もテーマ性が強い作品で、人間の欲望や業を鋭い台詞や描写で表しているので、そこが手塚作品と似てるんですね。
そこがやっぱり面白いなぁと思います。
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