(C)2018映画「累」製作委員会 (C)松浦だるま/講談社
『累-かさね-』の実写映画を観てきました。
その感想を書いておきます。
私は原作も最後まで読んだので、原作を含めてのネタバレがありますので注意してください。
以下、映画と原作のネタバレを含みます。
二人とも顔が似てる!
映画のストーリーは、原作でいうと2巻~4巻辺りの累とニナの話がメインです。
原作では累の小学校の頃や高校時代など、これまで人々から虐げられてきた日々を1巻で描いていたんですが、映画ではそこは短くカットし回想シーンのみにしています。
そして、すぐにニナと対面し『顔を入れ替える』取引の話になります。
このニナと初めて顔を入れ替える場面、割りと二人で掴み合いになって「えぇ!最初からキャットファイト!?」と少々びっくりしたけど。
で、土屋太鳳さんも芳根京子さんも二人とも顔立ちが似てるね!
ここだけの話、時々どっちがどっちだかよく分からなくなってました。
(C)2018映画「累」製作委員会 (C)松浦だるま/講談社
累は原作のような化け物という容姿ではなく、顔に大きな傷があるだけなので、人からイジメられるほど醜いという感じはしないです。
でも、前髪で顔を隠して暗ーい雰囲気を醸し出していると、不気味で近寄りがたい貞子のような印象は受けますね。
映画では野菊が登場せず、累とニナの話が中心になります。
また、淵透世(いざな)や羽生田の過去については描写されないので、原作未読の人が観ると『二人の関係性は?』となり、解り辛いのではと思いました。
どうなんでしょう。
どうしても、原作の長さを映画の尺でやるのは難しいので、カットする場面が多くなりますしね。
あ、原作になかった場面が面白かったです。
ニナが稽古中の累と入れ替わり、ニナ自身が烏合の前で演技を見せるところ。
また、ニナの母親が部屋にやって来て、累をニナと信じて疑わないところ。
特にニナの母親は、原作では最後までニナではないと累を疑っていたのに対し、映画ではニナの目の前で母親が累をニナと信じていたので、何とも切なかったですね。
妖艶さと狂気に満ちたクライマックス
映画のクライマックスは舞台『サロメ』になりましたね。
これは、原作の『マクベス』で出て来た口紅のトリックが盛り込まれていたので、『ここでこれが来たか!』と予想外で面白かったです。
サロメの妖艶な踊りと累の顔が上演中に元に戻ってしまうのでは…、というハラハラ緊張感が高まって良かった。
何といっても、土屋太鳳さんの『サロメ』の踊りが見事で、これは映画の中で見せ場になっていると思います。
原作と違って映画では『サロメ』が和のテイストなんですね。
「累 -かさね-」【土屋太鳳/劇中ダンス映像「七つのヴェールの踊り」】9月7日(金)公開
サロメの衣裳も日本的な袴姿で、白と赤のコントラストが映えて綺麗なんですよ。
ヴェールを身に纏い踊る、誘うような妖しげな視線と、所々得体の知れないおそろしさを感じる。
そんな妖艶さと狂気を土屋さんが見事に演じ切っていて、ここはサロメの踊りに引き込まれます。
そして、クライマックスは原作でいうと4巻の累が丹沢ニナとして『サロメ』を演じ終えたところで終わります。
あの最後のシーン、観客から賞賛と拍手を送られる丹沢ニナ(累)の後ろ姿。
(C)2018映画「累」製作委員会 (C)松浦だるま/講談社
この後ろ姿が印象的で、映画の最後を飾るのに相応しいと思います。
他人の顔と人生を奪い取った女が、人々から賞賛と拍手を送られて光の下にいる。
虚構の舞台に立つ、虚構の作られた女優です。
まさにダークシンデレラ。
原作とは違うラストですが、この最後の後ろ姿が好きです。
私が私でいること
映画のラストで、累とニナが対峙するシーン。
台詞はうろ覚えですが、累がニナに「この顔になって骨の髄まで分かったはずよ!どうしようもない劣等感ってやつが」と言います。
それに対し、ニナは「私が私でいられるなら、醜い姿だってかまわない!」と返します。
私が私でいる。
美しくても醜くても、私が私でいること。
映画も原作もそうですが、これが『累-かさね-』という作品の肝だと感じました。
(C)2018映画「累」製作委員会 (C)松浦だるま/講談社
口紅と口づけによって互いの顔を交換する。
累の演技力とニナの美しさ、このふたつがあって丹沢ニナという最高の女優が誕生します。
互いに己の欲望を満たすために相手を利用している。
しかし、この取引はどちらも己の心を満たさない哀しい結末を迎えます。
ニナは累に顔と人生を乗っ取られて、自分自身ではない丹沢ニナが人々から賞賛され、空虚な日々を送ることになります。
では、丹沢ニナとして顔と人生を乗っ取ることに成功した累はどうか。
奈落の底から這い上がり、輝く光の下で累は幸せになったのかというと、実はそうではないんですね。
原作で、最終的に累は気付きます。
奪った誰かの美しい顔で舞台に立ち続けても、この拍手や賞賛は累自身に向けられることはない。
どれだけ偽りの姿で舞台に立っても、累自身の心は満たされない。
ニナも累も『私が私でいる』と感じられなくなり、心が満たされない哀しい結果になります。
私が私でいる。
美醜の問題の果てにある答えかなと思いました。
『累-かさね-』は哲学的な面がありますね。
まとめ
改めて、『累-かさね-』は映画も原作も何とも言えない気持ちになる、テーマ性の強いダークな作品だなと思います。
悪い意味じゃなく良い意味で。
原作は累がニナの顔を奪ったあと、さらに新しい別のターゲットとの確執や、己の罪や業と向き合うところまで描かれています。
これがなかなか容赦ないストーリー。
映画を観た原作未読の人が、原作にも興味をもってくれたらいいな。
映画の方は、累がニナの顔と人生を乗っ取り、どんな手を使っても丹沢ニナであろうとする執念、狂気を感じるところで終わります。
そして、エンドロールで流れる主題歌Aimer の『Black Bird』
ハスキーな歌声と切ない歌詞に映画の余韻を感じながら、ニナの姿で累は最後何を思ったのか、とても気になります。
スポットライトを浴びるその後ろ姿、ハッピーエンドともバッドエンドともいえない終わり。
こういう終わり方は好きだなぁ。
『サロメ』の踊りやラストの展開など、実写映画は原作とは違う楽しみがあります。
実写は主演二人がそれぞれ二役を演じていて、本物の女優さんってすごいな~と感じることができます。
土屋さんの高い声が気になる時もあるけど、踊りはホント妖艶で見事。
あと、二人が顔を近付けあっているシーン…個人的に結構好きです。
そういえば、『累-かさね-』の実写映画化にあたって、何か企業とのコラボ企画はないかなと密かに思ってました。
口紅が作品のキーアイテムでもあるから、どこかの化粧品会社とコラボしてコスメ発売とか。
そんなのないかなと思ってたんですが、残念ながら無かったですね(;´∀`)
こちらの記事も合わせてどうぞ。
『累-かさね-』と手塚治虫の『人間昆虫記』、虚構の中で生きる女
コメント